満中陰の法要

ブログを読んで何人かの患者さんと友人が姑のお悔やみを言ってくださった。こんなに更新の遅いブログを読んでくれている人がいるんだなあ、と有難く思う。

3/27に、諸事情で少し早く満中陰の法要を行った。

白木のお膳に小さな白い食器。毎日いつも一緒に食べていた朝ごはんやお弁当のおかずや好物のスープを、「もう細かく刻まなくても食べられるね」と言いながら少しずつよそう。なんでもないこの行為が、少しずつ姑がいなくなった事を穏やかに受け入れさせてくれるような気がする。

姑は亡くなる最後の一か月くらい、食欲が落ちていく中、鶏がらを煮込んだスープ(ボーンブロス)だけは美味しいと言っておかわりしていた。「骨髄にはミネラルとアミノ酸が豊富に含まれ胃腸を癒す」と、患者さんにいつも勧めているボーンブロスは、やはり命のスープなのだ。

韓国の薬膳料理「サムゲタン(参鶏湯)」、中国の薬膳料理「ジータン(鶏湯)」もボーンブロスだし、日本の家庭料理「うしお汁」は魚のあらを使ったいわば和風ボーンブロスだ。現在のように「科学的根拠」とか「エビデンス」とか言わない大昔の人々は身体に美味しい食事を経験的に知っていたのだ。かたや現代人は「科学」に目を奪われ過ぎて、体の声を聴き忘れていないか?

それはともかく、姑の自宅の片づけをしていると、幼少時の家族写真や読んだ本の一説を書き留めた書付がたくさん出てきた。最後まで読書が大好きな人だった。本が、とくに晩年の姑の哲学を形成した大きな要因だったことがよくわかる。生前いつも口にしていた言葉の真意が理解できる。

こうして、故人を思い出しながら食膳を用意し、遺影を見ながら手を合わせ、遺品から私の知らない姑の一面を垣間見て、過去の記憶をより良いモノに作る作業をする。それが四十九日の意味なのだと初めて理解した。

そろそろ天国に近づいている頃だろうか。おしゃべり好きで好奇心旺盛なおかあさん、道草したり知らない人に声をかけて質問攻めにしているだろうか。おしゃべりしすぎて道に迷わないよう、無事に天国に到着しますように。。。

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