ポリファーマシー① 

・ポリファーマシーとは

・ポリファーマシーはなぜ起こる

「ポリファーマシー」は「複数(poly)」と「調剤(pharmacy)」をドッキングした、「のある多剤服用」を意味する言葉です。

 単純に「薬の数が多い」ということではなく、不適切な薬の処方により、有害事象のリスク増加、服薬過誤、服薬アドヒアランス低下などの問題に繋がる状態を指します。

日本老年医学会「高齢者の安全な薬物療法ガイドライン2015」では、薬物有害事象は処方薬の数に比例するとされ、 6種類を超えると発生頻度が大きく増加すると言われています。   ですが、あくまでも重要なのは数ではなく、処方内容が適正かどうかという点です。

では、ポリファーマシーが起こるのはなぜでしょうか?原因を考えてみました。

①高齢社会:有害事象が出やすく、複数の医療機関にかかる人が多い。

 各診療科から複数の薬が処方され、合わせるとすごい数に・・・って珍しくありません。 安く薬が手に入ってしまう国民皆保険制度を基盤とする日本の医療の弊害ともいえます。

おまけに高齢者は胃腸機能が低下していて、タンパク質(アルブミン)が少ないために、様々な副作用が出やすく、肝腎機能が低下していて、薬(毒)を排泄する能力も低下しています。

②新薬の多さと複雑さ、効果の強さ。

 最近の薬は効果が強く、言ってしまえば、根本原因である生活習慣を改善しないでも力技で症状を抑えこむことができるんです。根本原因である生活習慣を変えなければ、当然他の病気も起こりやすくなります。そうすればまた薬が増える・・・

③問診や薬剤歴のチェックには時間がかかり、保険点数がないので見過ごしがち。

 残念ながら、大勢の患者さんを短時間で診察することを求められる忙しい医師は、患者さんの内服中の薬剤すべてを把握することが困難です。自分が処方した薬ですら、いつ何の目的で投与し始めたかいちいち検討していない事もめずらしくありません。ましてや他の医療機関で内服している薬や薬同士の相互作用に気を配っていては経営が成り立ちませんし、待ち時間が長くなった次の患者さんに怒られてしまうことも・・・・。前回の処方をそのまま継続、または新しい訴えに対して薬を追加するのが関の山というのが現状でしょう。

医師が忙しすぎるのも、ちょっとしたことで医療機関に安くかかれる国民皆保険制度の弊害かもしれません。

④気づきにくい有害事象の症状も多い。

 例えば、当たり前のように長期処方されている一部の胃薬やコレステロールの薬には栄養障害の原因になるものがあります。また、多くの薬は、キレーションと言ってミネラルをくっつけて排出させてしまう作用を持っています。さらに、薬剤は最終的に肝臓でげぞくされ、排泄されますが、その「解毒」には多くの栄養素が必要です。つまり、思わぬ薬剤でタンパク質やミネラルの不足を招くのです。しかし、栄養障害による症状はすぐには現れず、年単位の時間で徐々に起こるうえ、あらゆる臓器で起こる症状は多岐にわたり、副作用と認識するにはかなりの栄養学の知識が必要です。そして、栄養学を知っている医師は稀です。

処方カスケード

⑤処方カスケード。

 ③の項で触れたように、医師の習性として、患者さんが何らかの症状を訴えると、その症状に対してまず薬を処方する、という発想になります。例えば、薬の副作用で頭痛が起こっていたとしても、副作用を考え原因薬がないか考える前にまずは鎮痛薬を処方するのが残念ながら一般的です。そしてまた、鎮痛薬で胃が痛くなったら胃薬を処方する、といった具合、これが処方カスケード。カスケードとは「小さな連続する滝」という意味。一つ薬を処方したことがきっかけで流れるようにどんどん薬が増えていくイメージです。

もちろん、医師や薬剤師が薬の適正な使い方をしてくれるべきなんですが、それは、今のシステムの中ではなかなかに困難な事です。

では、患者さんはどうしようもないの?いえいえ、そんなことはありません。患者さんができることがあります。それは次回に・・・

父が天国に・・・

去る8月27日、満中陰の法要、父は天国に旅立った。

その10日あまり前、お盆休みに帰省したが、折しも台風7号が実家和歌山の紀伊半島を直撃するコースで襲ってきつつあった。一人になって不安がる母のために、台風襲来前に実家に向かい、母と台風の通り過ぎる時間を一緒に過ごした。

当日、雨の中和歌山入りする私を母が心配したので、車中で、阪神淡路大震災を思い出していた。コースや通過時間があらかじめわかっている台風に向かうより、余震がいつ来るかわからない大地震後の現地に向かう方がよほど怖いではないか。

1995年に私が住んでいた神戸を襲った大震災。その時2歳になったばかりの長女、4ヶ月になったばかりの次女と夫の私たち家族は、震度7をたたき出した神戸市中央区に住んでいた。幸い家屋の倒壊には見舞われなかったが、家具がぐちゃぐちゃになった部屋をどうにか片づけ、水もガスも止まってしまった自宅マンションで二晩過ごした。すぐ近所の民家で何カ所か火事が起こったのを目にして、もしここに火が来てしまったら、二人の娘を守ることができるだろうか?給水の行列のどうやって並ぶのだろう?という不安に駆られ、神戸市北区で大きな被害を免れた大学時代の親友宅に一家で転がり込んだ。

それを知った両親(今の自分の年齢くらいだった)は、高速道路が寸断し、いつ余震が起こるかもしれない中、危険を顧みずに、走ったこともない山道をたどりたどり、和歌山から食料をもって迎えに来てくれた。そして、夫が一人で住めるよう、もどったマンションを掃除し、トイレタンクに水を満たして、私と幼い娘たちを実家に連れ帰ってくれたのだ。倒れた阪神高速の撤去作業中の国道43号線をくぐり抜けて、車の比較的少ない夜中に・・・

思えば、子供のころ、習字も計算も父に教わった。毎月習字教室で清書して「書の友」に出品する作品にはいつも父からダメ出しがあり、父がOKと言ってくれるまで書き直した。わからない算数の宿題は父に聞くと、(中学受験でいう「方陣算」とか「つるかめ算」などのテクニックを知らない父は)まずは方程式を使って答えを出し、その後小学生の私にもわかる教え方を考えて丁寧に教えてくれた。そんな宿題が出た日には、必ず友達の何人かから「教えて」と電話がかかり、父に教わったことを電話でわかるように一生懸命教えてあげた。当時はそれがちょっと面倒に思ったものだが、算数の問題を深く理解する復習だった。おそらく私は良くも悪くも父に認められたくて頑張ったんだなあ。

少し成長すると、巌とした父の言葉や考えに反発もした。そもそも、高2のころ、家庭科が好きで、家政科の大学に進学するか、学校の先生になるため教育学部に進学するか迷っていた私に、「百姓と先生しか見たことがないから、それしか思いつかんのや。お前は医学部に行け。」と言って強引に医学の道に進ませたのは他ならぬ父である。その時は、強い反感を抱いて衝突し、父を恨んだものだが、渡辺淳一の「花埋み」を「これおもしろいから読んでみ」と言われ、うっかり読んでしまって、日本初の女性医師に興味を抱いてしまい、気が付いたら医学部を目指していた。

時には体罰も厭わない、厳しくて近寄りがたい父だったが、大学進学後、7回もの引っ越しのたびに必ずトラックで駆け付け、力仕事を請け負ってくれ、晩年には、筋力の衰えた身体で懸命に野菜や果物を作って私たちに収穫を楽しませてくれた。

決してやさしい言葉をかけたりニコニコ笑顔を振りまく人ではなかったが、それが父の愛情表現だったのだ。

四十九日が済んで、あの世で数少ない気の合う友人に会えただろうか?なかなかに知的でユーモアがあるが、偏屈でもある父である。間を取り持つ母のいないあの世で上手くやっているだろうか?